一瞬先の未来のために

楽しさだけでは生きられない

デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する

本の紹介

デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する

この本が言いたいこと

  • むやみやたらと,ともすれば無自覚に新しいテクノロジー(主にSNS)を利用してはいけない.
  • なぜならそれらは人間が進化の過程で習得してきた能力のごく一部しか使用しないような質の低い余暇活動であり,真に価値のある過ごし方とは,実体との関わりを伴ったときにしか得られないからである.
  • 実体との関わりとはすなわち,
    • 人間同士のコミュニケーションにおいては,同じ時間・空間を共有したFace-to-faceでの会話であり,
    • 趣味おいては,上記に加えて,リアルなモノと向き合う活動である.
  • 質の低い余暇活動が必要なのであれば,それを予め1日のプランに組み込んだ上で,本当に大切なこと(=実体との関わり)と向き合う時間を過ごす方が,人生は充実していく.

Review

はじめに

「この本が言いたいこと」で「はいはい,もうそういうのうんざり」とか「そんなこと今更改まって言われても」と感じたとしても,この本は個人の姿勢を咎めたいわけでも説教を垂れたいわけでもない.これを「追いやられた状況」と捉え,時代の強く大きな流れに対して,それに動じず大木のように構える生き方こそ人間らしいと説く,現代の哲学である.ただ,内容が内容なので,おそらく少なくとも普段から漠然とした問題意識がなければ,この本で語られていることを受け入れることは難しいと思う(自己選択バイアス).
著者はアテンション・エコノミーを脅威として捉え,その脅威に対抗するために,①脅威の正体と,②征服されてはいけない理由と,③征服されないための生き方を述べている.③については,おそらくより一般的には「ミニマリスト」や「ミニマリズム」として知られた考え方の拡張であって,①と②は,日頃の生活に侵入してきた漠然とした違和感を説明している.私にとってこの内容は「良く噛んで食べることができた」,ということで,せっかくその食事で得たエネルギーを,Blogを書くということで消費させていただこうと思う.

アテンション・エコノミー

アテンション・エコノミーという言葉を,私は知らなかった.初見では,アテンション・プリーズとかエコノミー・クラスとかいう言葉を連想して,なんとなく飛行機に関係するのかなあ,搭乗するのかなあ,なんて思ったわけではなく,この言葉は「注意経済」のルビとして登場した.(搭乗と登場をかけています.為念)
アテンション・エコノミーとは,この本の定義によれば以下である.

消費者の注意を集め,それを使いやすい形に包装し直したものを,広告業者に販売して金銭的利益を得ている企業

GoogleFacebookがわかりやすくコレだが,このビジネスモデル自体は新しいものではなく,1833年に1ペニー新聞というので始まったものだそうだ,新聞はカネの流れの中でも「媒体」となり,購読者にもWinを,広告業者にもWinをもたらした.
GoogleFacebookが提供するサービスに当てはめれば,多くの人がここでの「購読者」ということになる.私たちが検索した情報を,Googleがその他多数の企業に売る.多対1から1対多へ.そして,上述の定義における「使いやすい形に包装し直したもの」にも品質があるわけで,ではより高品質な私たちの情報とは何かといえば,そのパラメータの一つは「ビッグ・データ(圧倒的母数)」であろう.

私たちの時間=彼らの$

テクノロジーは中立ではない.ユーザーに長時間使わせることを目的としている.

そりゃあそうだ,という感じだが,これは元Google社員の言葉である.元,ということだから辞めたのだろうが,その背景とこの言葉の関連はわからない.だが要するに「新しいテクノロジーを使うとき,あなたたちは不利ですよ」ということだ.私たち個人がアテンション・エコノミーと戦っている,なんて大袈裟であるが,彼らは最先端の技術を結集し,全力で私たちの時間を奪いに来ている.その良し悪しは問題ではなく,そういうビジネスモデルの上にいると「認識する」ことが重要なのだ.
最初は誰もが自覚的に使っていたはずだ.自覚的にその便利さを受け入れ,不可欠になってきたツールもあるだろう.しかし,その便利さに魅入られているうちに,無自覚に,つまりそのツールの使い方までもを,アテンション・エコノミーに明け渡していないだろうか,という懸念である.本当に価値を認めている活動が,デバイスによってくじかれてはいないだろうか,という懸念である.

スマホをチェックするのは”さあ,当たりは出るかな”と期待してスロットマシンのレバーを引くようなもの

FacebookTwitterinstagramやニュースアプリなど,常習的に使用してしまうアプリケーションはどれも2つの要素を基に設計されている.それは間歇強化と承認欲求である.
①間歇強化:予期しない報酬システム.じぶんの投稿へのフィードバックや,ニュースアプリを巡回しているときに見つけた面白そうな見出しのこと
②承認欲求:言わずもがな,社会的な承認という,”小粒ながら中毒性の高い黄金”

UI/UXを突き詰めたとき,結果としてそこに行き着くことは全く不思議ではないし,必然である気がする.ユーザーにとって価値がある情報の精度を高めるために,とにかくデータを集めるために,まずは利用してもらう時間を増やそうとする.それがユーザーにとって無自覚的な利用状態であっても.私たちのデフォルト・モード・ネットワークに適合して支配するテクノロジーであったとしても.

「有害」とすべき理由

SNSのメリットは何か?と訊かれたら,何と答えるだろう,パッと思いつく私の答えは,

  • やむを得ず離れてしまった友人たちの近況を知ることができる
  • 会話だけでは非効率な情報交換を,非同期にできる
  • 「いいね」の送り合いで,気持ちが豊かになる

となる.しかし,そんなメリットの総和は,無自覚的な利用という大きな損失な対して「割に合わない」のだと,なかなか手厳しく,言われたくなかったところを突いてくる.

ものの値段とは,短期的,長期的に見て,それを手に入れるのに費やさなくてはならない,私が生活と呼ぶものの量である

これは「森で暮らしてみた」というようなことを書いたらしい本(※説明が雑なのは読んでいないからでそれ以上の意味はありません)『ウォールデン』で著者のソローが悟った,「ソローの新経済論」と呼ばれるものだ.これに照らし合わせれば,私が列挙したようなメリットをその利用時間で割ると,そんなにありがたがるものですか?ということだ.そのメリットはずっと低いコストで手に入るか,そもそもなくても困らないものじゃないですか?と.そしてさらにまくし立てるように,次のロジックをぶつけてくる.

収穫逓減の法則:あるプロセスに投入するリソースを増やしても,生産量は無限に増えるわけではない

つまり,新しいテクノロジーを利用すればするほどもたらされる利益が増えるなんていうことはなく,頭打ちになっているにも関わらず,時間というリソースを費やしていないか?ということだ.ここまでくると,はいその通りです,ごめんなさいと謝るしかなくなる.無駄に動物の動画を観たり,私とは無関係な人の少し主張の強いツイートとそのやり取りをなんとなく見たりしてすみませんでした.
と謝っていると,次は,それはあなたのせいではないよ,と言ってくれる.「そういう風に設計されている」と.ただそれを認めることも,恐怖を感じる.

  • 新しいテクノロジーは目新しく楽しい存在のため,具体的にどれだけメリットがあるか気づきにくい
  • 漠然とした姿勢で使ってもらえるように設計されている
    • Facebookの紹介文:コミュニティづくりを応援し,人と人がより身近になる世界を実現する

2つ目はFacebookがユーザー数を拡げた結果,抽象的な表現にせざるを得なかっただけなのでは,とやや擁護してしまう気持ちが湧くが,もうFacebookのせいにしてしおう,Twitterのせいにしてしまおう.お前たちのせいでやるべきことができないではないか!

自由になるために

シリコンヴァレーの投資家から最新のサービスを差し出されるたびに反射的に新規登録するのは自由とはかけ離れたものである

そんな真似しませんよ,なんて思うが,おそらく私のiPhone内のアプリと隣人のiPhone内アプリと比べたら,同じアプリがインストールされている気がする,それは追いやられた結果かもしれない.ここでタイトルである「デジタル・ミニマリズム」がやっと登場する.

デジタル・ミニマリズム

自分が重きを置いていることがらにプラスになるか否かを基準に厳選した一握りのツールの最適化を図り,オンラインで費やす時間をそれだけに集中して,ほかのものを惜しまずに手放すようなテクノロジー利用の哲学

具体的なステップは本書を読んでもらうこととして,重要なのはまずインストールされた数あるスマホのアプリの中から本当に必要なものだけを残した上で,さらに残したアプリも使用方法に制約を作る,ということだ.コツはこれを一気にやる.ということで,ほぼ無意識的に開いてしまうinstagramtwitterを中心にアンインストールをした.たが,まったく見なくなるのも不安だったので,週末だけPCから見ることにした.結果としては,

  • instagramは私にとってまったく必要ないことがわかった
  • facebookも同じ
  • twitterはフォローする人を厳選して,毎日見る必要はない.
  • ニュースアプリはクリップするだけ.週末にまとめて読む.

という感じになったはずだったが,twitterChromeアプリでスマホからログインした結果,トップに表示されるようになってしまい,失敗.ニュースはまとめて見ませんでした.
敗因を分析すると,これらをやめて何をするか,という明確な目的がなかった.当たり前だが,やってみるだけでは不十分だった.ということで,この時間で筋トレと読んだ本のアウトプットをしようと決意した(今ココ).

広帯域コミュニケーション

ここまで触れてこなかったが,著者がSNS上のやり取りを「価値が低い」と評しているのは,主に”いいね”の押し合いであり,この1bitのやり取りでコミュニケーションをとった気になってはいけないと言っている.人間が進化の過程で備えてきたコミュニケーション能力とは,五感をフル活用して多くの情報を同時並行して処理するもので,それこそが人間関係を豊かにする,というものだ.Twitterのありがたみを実感してきた私としては,「すでに一定レベル築かれた人間関係においては」という条件付きで同意できる.新しい繋がりを生みやすいという点で,SNSは価値があるものだと思う.(その辺は小島秀夫監督作品「Death Stranding」でも語られているところなので,全クリしたときにでも,このゲームの素晴らしさを書きたいと思う.)
著者が勧めている「広帯域コミュニケーション」の一つにボードゲームがある.

ボードゲームは,デジタル世界と離れた独特の社交空間を作る

たしかに,ボードゲームとゲームの楽しさは異なる.個人的には,オンラインでゲームをするよりも,ボードゲームをした方が楽しいと感じる.オンラインも,ただ一緒にやるよりも,ビデオチャットをしながらの方が楽しい.CPUを相手にするより,他のPLAYERを相手にする方が楽しい.つまり,リアルな要素が多いほどゲームは楽しい.それがより多くの感覚を使用する,ということでもたらされているのであれば,これまでの主張は正しいと思うし,ゲームやSNSなどのツールはあくまで補助的な存在であるということを忘れてはいけない気にさせてくれる.

本当に大切なこと,を見つけること

この本が示している「本当に大切なこと」は,一般論としては定義できないというのが私個人の考えで,たとえ低帯域なコミュニケーションであっても,その力が大きく感じることがある.それは良くも悪くも,伝送される情報量がわずかであっても,いくらでも「解釈する」ことができるからだと思う.だから,質が低いと定義されたコミュニケーション自体にあまり問題意識はない.せめて言うなら,必要なときがある程度だろう,という認識だ.
一方で,本来自分が価値を認めていることが脅かされている状態は,断固として望ましくない.これは本書に書かれているとおりである.スマホが登場する前からそのような状態はあったから,全ての責任を新しいテクノロジーのせいにはできないとは思うが,極論を言ってしまえば「本当に大切なこと」があれば,脅かされる心配はないだろうということだ.これは非常に難しい.本当に大切なことを見つけるのが難しいから,「なんとなく手近で大切そうに見えること」を優先してしまうような気がする.
この本で書かれたデジタル・ミニマリズムを押し進めながら,もう少し「本当に大切なこと」が何かを見つけてみようと思う.