一瞬先の未来のために

楽しさだけでは生きられない

ブレードランナー2049 (2017)

初投稿につき

 SFというものに初めて自分の意思で触れたのは、山本弘氏の『神は沈黙せず』だった。当時は中学生で、山田悠介氏の「ライトな」小説が流行っていて(というか最初に持ち込んだ火付け役だった気がする自惚れ)、クラスで広まった頃にインテリぶりたかった私は「みんなより一段上の本だぜ」と言わんばかりにその小説を読んでいた、という不純なきっかけである。不良ぶりたくてタバコを吸い始めることとあまり差はないと思っているが、理由がなんであれ、素晴らしい世界への入り口に立てたことは間違いない。

 ただ、それ以来SFを好んで読んでいたわけでなく、むしろ知見や世界観の理解には高いハードルがあることを実感して、離れていた(『神は沈黙せず』も、結局ちゃんと読んだのは高校生になってから)。そして大学生の頃、生協の購買で伊藤計劃氏の『ハーモニー』を手に取ったことが、ブログを書くという今現在の行為につながる出会いだった。『ハーモニー』についての想いや感想は、いずれ。書かずにはいられない。

 終わりに。

 冒頭からSFとの出会いを述べたが、特にSFに限定して書いていくつもりは無い。SFでなくても好きな作品はたくさんあるし、好きな作家もいるし、音楽も聴くし、野菜中心の食生活を心がけてるし、涙で枕を濡らす夜もあるし、エロいことを考えるし、仕事はできればしたくないけどお金が欲しい。そういうつもり(?)で書いていく。なにが言いたいかというと、心を動かされたあらゆる体験を記録する、雑多なブログになりますのでご承知おきくださいというコトワリである。

 

いきなりバリアー(意:言い訳)

 ブログを始めようと決意してから、最初に観た映画がこの「ブレードランナー2049」。仮に私がレプリカントで、職務遂行後の精神分析テストで「前作ブレードランナー」と呼びかけられたら、異常値を出す自信がある。「原作アンドロ羊」と呼びかけられても同様だ。つまり、観ていないし、読んでいない。「必修科目のフィリップ・K・ディック氏のアンドロ羊も読まずに、何がSF好きだ!」と大勢の人に叱られる夢を見そうである。ただ、観てしまったものは仕方がない。まわりの人が観ろって言うし。

 

 

/* ここからやっと映画の話 */

人間らしさ探究の旅

 アンドロイドを登場させたら、まず避けては通れない命題だ。人間とロボットの境界。遺伝子配列とプログラムの境界。自然と人工の境界。それがKの命題で、Kの「気持ち」になって考えてしまう私たちは、おのずと自分の考える人間らしさと向き合うことになる。はたして自分は人間らしいか、と。

 大義のために死ぬことは、もっとも人間らしい

 旧型と呼ばれるレプリカントは、そう言った。

 大義のために死ぬ、と聞くと、死んで初めて人間らしいのかと問いたくなるが、そもそもこれを達成しようとしたら「大義を見つけるまで生きる」ことが必要になる。もっと噛み砕くと、生きる意味を見つけなくてはならない。

 人間とアンドロイドで共通するのは「生まれることを選べない」ということだと思う。自分の意思で生まれたわけではない。だから、生きる意味はどうしたって後付けになるし、悲観的にも考えられてしまう。生きる意味なんてもともと無いというのに、反論の余地は無い。

 一方で、レプリカント同士の間にできた子どもを追うKは、こんなことを言った。

(妊娠して生まれたレプリカントには)魂があるから

 レプリカント、というより少なくともKからすると、「造られた」ことと「産まれた」ことは異なって見えている。どちらも生まれることを選べないという点では同じであるが、生まれるまでの過程に差異を感じ、それを「魂」という言葉で置き換えている。Kは、自分の中で「魂」とは何であるかという答えを持っている。

 

魂とはなにか

 レプリカントが「造られる」のには明確な理由がある。人間のための労働力という存在でしかない。しかし、人間が「産まれる」ことに、理由はない。人類や国家の繁栄のため、という答えがあるかもしれないが、直接的な理由ではない。親が性行為をした結果であり、生きる意味は与えられていない。ましてや、遺伝子配列に表現されていることもない。

 つまりKの考える魂とは、生まれた理由がないことを指しているのではないかと思うのだ。理由がないからこそ、それを探すのにはコンパスが必要であり、それが「魂」なのだ。だから生きる意味がない、ということは全く悲観することではない。人間は、死ぬまでそれを探し続けることができる。逆に言えば、探し続けるからこそ人間なのだ

生きる意味が決められた人間が、人間らしいわけがない。

 

人間もどきもいればレプリカントもどきもいる

 Kは製造番号しか持たず、人間の同僚からは「skinner(もどき)」と呼ばれていた。

 しかし、従順に造られたはずの新型であるKが、自分の意思で唯一の記憶を辿り、真実を突き止め、大義によって死ぬ。このKに対して私たちは誰一人skinnerなどとは呼べないだろう。論理的に考えるまでもなく、雪上で死にゆくKは「人間らしい」と感じる。

 「人間らしい」というのは人間をレプリカントの上位に置いた言い方であるが、人間であるというだけで人間らしいわけではない。不幸にも、人間らしく生きられない人間はいる。人間らしく生きようとする意思さえ抑え、レプリカントのように振舞わなければいけないこともある。

 

 

 アンドロイドという存在が人間社会でどのような存在になるのか想像もつかないが、存在そのものが人間に人間らしさを考えさせることになる。アンドロイドのことを思っているようで、人間は人間のことしか考えられない。

 そして今は、生まれた意味がなくてよかったと思いながらも、明日の朝起きる「仕事」という理由を見つけて、すぐに短期的視点に戻ってしまう己の哀れさに暮れながら、いつも通り眠るのである。

 

トピック「ブレードランナー2049」について