一瞬先の未来のために

楽しさだけでは生きられない

結婚披露宴で四星球を流した話

結婚式から1週間経ちましたが

あっという間でした.
当日は本番直前に挙式のリハーサルをし,Zoom先の友人たちにリモート配信開始の挨拶をし,挙式本番はガチガチで,鐘を6回鳴らし(5回のつもりが振り子運動で1回増えて割り切れる回数になったのは内緒),Zoom先の友人たちが画面に一斉に映る光景に感激して配信終了の挨拶がまともにできず,(このご時世なので)挙式の後に地元の友人を見送り,親族たちだけで結婚披露宴をした.
正直に言えば,結婚式を延期した結果1年近く終わらないイベントを抱え続けた不安で精神はいっぱいいっぱいで,はやく終わってくれと思っていた.しかし終わってみると,こんなにも祝福されることはこの先無いだろうと思いつつ,やって良かったと心から思う結婚式にさせていただいた.

結婚披露宴で流した四星球セットリスト

※ここから先は大好きなバンド「四星球」の話になります
結婚披露宴で流す曲は,自分たちで選ぶことができる.(但し,著作権の関係で,必ず原盤を持ち込む必要がある)
ワイフと私では音楽の趣味が異なるので,お互いに半々になるような選曲をした.四星球を使うことは,結婚式をやると決める前,いや,ワイフと出会う前から決めていたことだった.定番の洋楽を選ぶなど,私の選択肢には無いのだ.ワイフにどんな顔をされようが,喧嘩になろうが,私にとっては一緒に生きてきた音楽なのだ.
と心で唱えながら,反対するワイフの意思を軽やかに受け流しながらセットリストは完成した.使用できたシーンと曲を紹介する.

  • 新郎プロフィールムービー:妖怪泣き笑い
  • ケーキ入刀:思い出クイズ
  • ファーストバイト:オモローネバーノウズ
  • 新郎中座:ボーナストラック
  • 新郎の手紙:親孝行 or DIE
  • 退場:LAUGH LAUGH LAUGH (時系列順.maybe)

驚くべきは,四星球の汎用性である.ここでは全体の流れの一部でしか使うことができなかったが,おそらく全てのシーンで,ぴったりな曲を選ぶことができる.(これがぴったりかは人によりますね)
特に,思い出クイズは,当時「もはやCDではない」がリリースされたとき,衝撃を受けたこんなフレーズがある.

幸せの前借りだったとしても私かまわない
使い果たしてもかまわない
思い出でやっていける

「幸せの前借り」という言葉は,幸せが有限であるから大切にしなさい,ということではないと解釈している.
辛いことや悲しいことがあるからこそ,それを乗り越えるために幸せを持っていこうということだ.
そして「借りる」ということは「返す」ということだ.受けた祝福を返したいという気持ちが,私の中ではぴったり重なった.

結婚式を何のためにやるのか

私たちが結婚式場に初めて行ったとき,そんな質問をプランナーの方にされた.「この会社で何をやりたいですか」と就活で訊かれるのに似たものを感じたが,それは重要な質問だった.たしかに,大金がかかるし,そのお金の流れを考えても,心の底からそうだと思える答えを持っていなければならない(と思う).
私はそのとき,私たちに関わってきたすべての方にお礼をしたいということと,こんなに綺麗な私のワイフを見てほしいのだ,と答えたと記憶している.
ただ,終わってみてさらに思ったのは,結婚式はライブに似ているということだった.
楽家は,音楽を届けるだけなら,CDを売るとか,音源をオンラインの海に放てば良い.あるいは誰かに曲を提供して,その人に広めてもらえば良い.それだけが目的なら,ライブをやる必要は無い.では,なぜライブをするのか?それはライブに行く人ならわかるはずだ.私はバンドマンではないし,これからなる可能性も極めて低い.だから音楽という文化の中では常に「ライブを見る人」だ.ただ,それは構造の話であって,実態はそのように分けられていない.ライブは一体だ.構造的にライブをする側と見る側に分けられるが,少なくとも,大好きな四星球のライブに行けば,一体になって楽しんでいる.それが人生を豊かにしてくれると感じるし,ライブをする人も同じように感じてくれれば良いと思っている.
だから,結婚式はライブに似ている.祝福される側とする側の話ではなく,そこで一体となって,辛さや楽しさを感じ取りあえる.だから結婚式は,ライブだと思えば1日だけでもバンドマンになれる.いや,だからつまりライブはバンドマンだけの特権ではない.私たちはすべからく「生きる者/Liver」として,人生に1回のライブをしても良いんじゃないでしょうか.

最後に

油断して3キロ太ったのでジム再開します.ご清聴ありがとうございました.

TENET(2020)

コロナ禍の映画

少し前から映画館に入れるようにはなっていたが、コロナの流行状況とは無関係にそれほど観たい映画が無かったので、久しぶりの映画だった。収容人数には制限があったものの、地元の映画館の、例によってモール内の隣接した店舗まで浸食するポップコーンの匂いは健在で、記憶と結びつきやすい嗅覚への刺激は映画のUXを増大させているに違いない。

というわけで、久しぶりの映画館で、しかもクリストファーノーランときたら、勝利を確信して入場したわけです。ワイフとともに。

 

前提の誤解

映画の内容について話す前に、いくつか私の中で前提にしていたこととは誤解があったので、これから観る方は参考にしてほしいと願う。ネタバレはできるだけ無しで。

 

誤解①時間を逆行させるのは能力ではない

予告編を観た私は、主人公だけが時間を逆行させて、銃弾を跳ね返したり車を運転させたりするのかと思っていたが、そうではなかった。超能力モノではない。逆行はあくまで現象であり、それをコントロールできるのは、そのように設定された物だけである。(抽象的なのはネタバレになるからです)

 

誤解②時間軸が一つではない

時間軸と言われて一本のベクトルを思い浮かべて、正の方向が順行、負の方向が逆行だと考えていると、それは混乱の原因になる。時間軸上のある点が現在で、その点が正の方向に向かってじりじりと移動するのが順行なのだが、その現在において同時に逆行するものが共存するため、時間軸は複数あると考えないと混乱する。こんなことを言っているとTENETの研究員に、

理解するのではなく、感じるの

と間違いなく言われてしまうし、そう考えると、観客は主人公と全く同じ理解度のまま映画が進んでいっていることがわかる。

 

先入観というのは怖くて、これを誤解したまま内容を理解するのは至難だった。というか理解できなかった。というか理解させる気ある?

 

ワイフとの沈黙の帰り道

映画の観賞後、半ば無理矢理一緒に観させたワイフには申し訳なく、とても怖くて感想なんて訊けなかったが、第一声が「あたま痛くなった」だったので、感想を訊くのは諦めた。せいぜい「わけわかんなかったよね」と言うしかできなかった。畜生め。一回で理解できる映画を作れってんだ!と思ったが、これだけの敗北感に燃えている自分もいた。

映画館から車で帰る間、わけのわからない映画を2.5時間も観させられたと思っているかもしれないワイフを横に乗せながら、ひたすら沈黙しながらあの映画がなんだったのか、それこそストーリーを逆行させる勢いで遡った。

 

たぶん苦手な映画でした

期待が高すぎた気がします。はい、私の理解力がないと言われればそれまでですが、、、ええ、アクションは見ものでした。あの、銃弾が戻っていくところとか、車が回転するところがとか。

ええ、すみません、だれか、理解できた人から教えてもらおうと思います。

これもあくまで記録のためなので。

苦しかったときの話をしようか

本の紹介

苦しかったときの話をしようか

著者はUSJを窮地から立て直したという,森岡毅さん.恥ずかしながら,この本を同期に紹介してもらうまで存じ上げていなかったが,バイタリティに満ちたとんでもない方であるというのは間違いない.そして読後に感じる,森岡さんのシワの重み.あのシワの一部に,どれほどの苦労があったか,その片鱗を感じ取れるはずである.(実は,タイトルのような苦労話自体は書籍の本質ではないので,ここには紹介しません.ただ平凡で退屈な苦労話とはレベルが違う&面白いので,一読をオススメします)

社会という砂漠を生きる

ついこの間,大学に入ったかと思えば,もう卒業ですか.必死に勉強して入学したのに,休む間もなく,次のことを考えなくちゃいけないなんてね,どういうシステムなんですか

これは伊坂幸太郎『砂漠』で西嶋が漏らすセリフで,大学生の頃に読んで共感し,ずっと覚えている.浪人を経た反動もあって「ずっと勉強してきたんだ!大学こそ遊ばなくてどうする!ウェーイ!」という,もはや強迫観念に近い気持ちで遊ぶことばかり考えていた私にとって,都合よくこの言葉がマッチした.西嶋のニュアンスとは少し違う気もするが,ほとんど何も準備をしないまま,今見えてる狭い世界の中で就職先という「選択」を迫られ,その延長線上を生きている.ただひらすら最終的に行き着く先もわからない「砂漠」を歩いている.

しかし,この本の著者である森岡毅さんは,我が子に向けて訴える.
君は高く飛べる!
君の宝物を磨け!
君の刃を研げ!
君はきっと大丈夫!
そんなエールと共に,この社会の本質構造に言及し,いわば砂漠の地図を与えてくれる.地図を示して,この先はこんな風になっている,こんなことに気を付けろと,教えてくれる.その上で,本当に目指すべき先は「自分で決めなさい」と言う.そして,自分で決めるためには,自分に向き合うことが重要であると.

やりたいことがわからなくなる「構造」

人間社会の根源にあるものとは「欲」である,と森岡さんは言う.欲,つまり,より快適に便利に暮らしたいという意思のベクトルが本質だとすると,それを実現するために人々に競争させ,怠惰や停滞を許さず,生き残るために常に進歩と努力を強いる構造になっている.それが「資本主義」である.(考察:最近はより耳触りの良い「持続可能な社会」が登場した).欲という本質にマッチする資本主義の構造は,人間が平等ではないという周知の事実と組み合わせて,やや残酷的表現で言えば,以下のようなことに繋がる.

  • 人は生まれながらに平等ではない
  • しかもそれは「知力」に直結する
  • 一方で,能力の差によって経済格差が生まれることを認め,頑張った人が報われることを「公平」としている
  • 無知であることと愚かであることには罰金を科すシステムになっている
  • サラリーマンを働かせて,資本家が儲けている
  • サラリーマンができるだけ多くなり,資本家にとって都合の良いこの事実に気づかれないように,サラリーマン・パースペクティブという「美徳」を育む教育システムになっている

たしかに,資本主義というものの本質を意識することなく生きてきた私は,まあそういうものかあ〜(ほじほじ)と,今考えるとアホ丸出しだったのではないかと怖くなる.やりたいこと,というのも,なんとなく得意な科目があって,なんとなく偏差値という軸の中で戦ってきて,なんとなく面白そうな分野を選んできた.幸せな状態に向かうには必要なルートであるとなんとなく信じてきた.努力すれば報われるはずなんだ!と.
しかしそれは「自分が本当にやりたいこと」をぼやけさせている.いまやっていることが本当に得意なことなのか?小さな頃から持っている「宝物」を磨いてきたのか?この資本主義社会によって「最適化」された価値観ではないか?私は本当に自由だったのか?と,大量の疑問がのしかかる.そしてある思いに至る.
今の私に,「これなら勝てる」とか「これが強みだ」と言い切れる切り札がまるで無いぞ.ああ,どうしましょう.

じぶんが磨くべき「宝物」を見つける

この世の中の本質と構造を理解した上で,「それでも私の幸福は,定年まで働き,それなりに稼いで,身近な人とずっと一緒にいられれば良し」と腹をくくることは,立派な人生と言えるだろうし,そう容易いものでもないと思う.だからそこにターゲットを絞って生きよう,と結論づけようとする自分もいる.ただ,ふとしたときに考える.世の中を自分の力で変えてみたい!そういう漠然とした意思を,小さな頃からあった気持ちを,無視していいのか?世の中がそうなっているのなら,その中で足掻くよりも,それを利用してやろうじゃあないか!ぶちあがってやろうじゃないか!人生は1回きりだ!
ただ,そうは言っても,目立った武器もないし戦略もない.サラリーマン・パースペクティブの中で生きてきた私は,まわりと同じ標準装備だ.まわりと同じように立ち回った結果は,まわりと同じになるだけだ.そうじゃない.
まずは自分を正しく知ることだ.まずは自分の中で相対的に秀でていることを考える.それを戦略の中心とする.だから必要なのは,日本の教育システムにはほとんどない,自分と向き合う時間だ.Self-awarenessというらしい.おお,英語だ.英語というだけで,やった方が良い気がしてくる.(なんか煽っているみたいになってきた)

まず,重要な前提条件がある.

強みは必ず好きなことの中にある

言われてみれば当たり前なのに,こう言われてハッとしているということは,きっと好きなことができていないのだろうなと思ってしまう.ただ仕事にもいろんな側面があるので,ゼロイチで判断する必要はなく,必ず今の仕事にも好きだと言える要素があるはずだ.(そうじゃなければはやく辞めればいい.わかったか俺よ)

Step1:最初に,自分が好きである/好きだったと言えることを,動詞ベースで100個書き出す

ということなので,書き出してみた.ただ,ここにそのまま100個並べるほど暇じゃない(大嘘).いや,実際これは「長時間寝ること」という目も当てられないような間抜けなものが割と序盤に食い込んできて恥ずかしいので,割愛させていただきたい.兎にも角にも,最低100個というのはなかなか難しかった.

Step2:それらをT(Thinking/思考属性),C(Communication/コミュニケーション属性),L(Leadership/リーダー属性),それ以外に分類する

なんとか書き出した100個を分類すると,T:C:L=4:3:3という具合だった.これがどこに分類されるのか,という判断も難しいが,それぞれの例はこんな感じ.

  • Thinking
    • 計算して答えを求めること
    • 新しいことを知ること
    • 論理的な文章を考えること
  • Communication
    • ボードゲームをすること(戦略を考えることが好きなら,たぶんT)
    • 友達と喫茶店で駄弁ること
    • きれいな女性と話すこと(どうやって仲良くなるかを考えるのが好きなら,たぶんT)
  • Leadership
    • 目標を定めて挑戦すること
    • 人を引っ張っていくこと
    • 何かを達成すること

言われてみればこれも好きだなあ,なんて思うことがあって,正直どれくらい当てになるのかわからないが,自分にとってTが最も高い,というのは納得がいく.就活のときにやっていた「自己分析」というのもこの類のものであろう.そして,これを把握した上で,向いている職種についても記載されていたが,いまの研究職がTであるということなので,そういう点では間違った選択をしていないということが判った.

Step3:その職能を磨く

あとはひたすら経験と努力を積むのだ,というStep3の登場である.森岡さん曰く,Step2というのは日本人が最も苦手,というより時間をかけずに済んでいたことであるという.Self-awarenessが低くても歯車として機能していれば十分な生活ができていた昔の日本では良かったが,今は違う.しかしSelf-awarenessが低い親は,Self-awarenessが低い子しか育てることができないという悪循環もあって,時代にそぐわない「サラリーマン・パースペクティブ」は継続してしまう.それはサラリーマンである親の人生を否定するということでは当然ないが,広い視野で戦略的にキャリアを積んだ場合とそうでない場合では結果に差が出ることは当然だろう.
一方で,勤勉さ,ということについては,日本人の最大の強みであるという.精神論という今でこそ忌み嫌われ始めたものであるが,それを武器にしない限り,Self-awarenessに投資してきた欧米に勝つことは難しいのである.

”勤勉さ”こそが日本人の最大の強みなのに,猛烈に働かなくてどうするのだ

スパルタである.働き方改革が単に「労働時間を減らそう」という方向にしかならない実態を考えると,非常に居心地が悪いであろう,この言葉.上層部に言われた部下がTwitterで晒し上げてしまいそうな言葉だ.
日本人,という一括りの表現についてはさておき,個人的には,能力で足りない分を補う手段は「時間をかける」とか「助けてもらう」とか「やり方を変える」とか様々あると思うが,人それぞれ持っている天秤は違うので,自分が選択しても良い手段をそれぞれ選べば良いのだと思う.ただそのような努力をせずに,欧米のIT企業を例に挙げて体裁から「それっぽく」仕事をしたい,とか, WhyやWhatをスキップしてHowばかりを非難するような風潮は全く本質的ではないと,いまの職場にいて感じることである.(高温注意)
「猛烈に」というのが何を指すのかはわからないが,プライベートを犠牲にしてまでひたすら時間をかけなければならないときはあるだろう.ただ,それが「自分のため」だと思えるなら喜んでやれば良いだろうし,「会社のため」であるなら一回立ち止まって考えることが必要かもしれない.

所感

ここでの要約はごく一部にすぎない.ただ人生における仕事の捉え方や情熱の傾け方などを,一度俯瞰して考えてみるのに本書は非常に有効な手助けになる.私の「影響を受けやすい」という特性を差し引いたとしても,仕事に刺激を感じず,長期的な目標を見据えてぶちあがっていきたいという意思が少しでもある人なら,必ずモチベーションが高められるはずだ.
「無知であることと愚かであることには罰金を科すシステム」に対して,この構造自体の変革行動を起こすか,構造を理解した上で立ち回るか.その先には常に自分の理想の状態があるように,時間をかけて目標を定めていきたいと思った.そうだなあ,30歳になるまでには.

デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する

本の紹介

デジタル・ミニマリスト 本当に大切なことに集中する

この本が言いたいこと

  • むやみやたらと,ともすれば無自覚に新しいテクノロジー(主にSNS)を利用してはいけない.
  • なぜならそれらは人間が進化の過程で習得してきた能力のごく一部しか使用しないような質の低い余暇活動であり,真に価値のある過ごし方とは,実体との関わりを伴ったときにしか得られないからである.
  • 実体との関わりとはすなわち,
    • 人間同士のコミュニケーションにおいては,同じ時間・空間を共有したFace-to-faceでの会話であり,
    • 趣味おいては,上記に加えて,リアルなモノと向き合う活動である.
  • 質の低い余暇活動が必要なのであれば,それを予め1日のプランに組み込んだ上で,本当に大切なこと(=実体との関わり)と向き合う時間を過ごす方が,人生は充実していく.

Review

はじめに

「この本が言いたいこと」で「はいはい,もうそういうのうんざり」とか「そんなこと今更改まって言われても」と感じたとしても,この本は個人の姿勢を咎めたいわけでも説教を垂れたいわけでもない.これを「追いやられた状況」と捉え,時代の強く大きな流れに対して,それに動じず大木のように構える生き方こそ人間らしいと説く,現代の哲学である.ただ,内容が内容なので,おそらく少なくとも普段から漠然とした問題意識がなければ,この本で語られていることを受け入れることは難しいと思う(自己選択バイアス).
著者はアテンション・エコノミーを脅威として捉え,その脅威に対抗するために,①脅威の正体と,②征服されてはいけない理由と,③征服されないための生き方を述べている.③については,おそらくより一般的には「ミニマリスト」や「ミニマリズム」として知られた考え方の拡張であって,①と②は,日頃の生活に侵入してきた漠然とした違和感を説明している.私にとってこの内容は「良く噛んで食べることができた」,ということで,せっかくその食事で得たエネルギーを,Blogを書くということで消費させていただこうと思う.

アテンション・エコノミー

アテンション・エコノミーという言葉を,私は知らなかった.初見では,アテンション・プリーズとかエコノミー・クラスとかいう言葉を連想して,なんとなく飛行機に関係するのかなあ,搭乗するのかなあ,なんて思ったわけではなく,この言葉は「注意経済」のルビとして登場した.(搭乗と登場をかけています.為念)
アテンション・エコノミーとは,この本の定義によれば以下である.

消費者の注意を集め,それを使いやすい形に包装し直したものを,広告業者に販売して金銭的利益を得ている企業

GoogleFacebookがわかりやすくコレだが,このビジネスモデル自体は新しいものではなく,1833年に1ペニー新聞というので始まったものだそうだ,新聞はカネの流れの中でも「媒体」となり,購読者にもWinを,広告業者にもWinをもたらした.
GoogleFacebookが提供するサービスに当てはめれば,多くの人がここでの「購読者」ということになる.私たちが検索した情報を,Googleがその他多数の企業に売る.多対1から1対多へ.そして,上述の定義における「使いやすい形に包装し直したもの」にも品質があるわけで,ではより高品質な私たちの情報とは何かといえば,そのパラメータの一つは「ビッグ・データ(圧倒的母数)」であろう.

私たちの時間=彼らの$

テクノロジーは中立ではない.ユーザーに長時間使わせることを目的としている.

そりゃあそうだ,という感じだが,これは元Google社員の言葉である.元,ということだから辞めたのだろうが,その背景とこの言葉の関連はわからない.だが要するに「新しいテクノロジーを使うとき,あなたたちは不利ですよ」ということだ.私たち個人がアテンション・エコノミーと戦っている,なんて大袈裟であるが,彼らは最先端の技術を結集し,全力で私たちの時間を奪いに来ている.その良し悪しは問題ではなく,そういうビジネスモデルの上にいると「認識する」ことが重要なのだ.
最初は誰もが自覚的に使っていたはずだ.自覚的にその便利さを受け入れ,不可欠になってきたツールもあるだろう.しかし,その便利さに魅入られているうちに,無自覚に,つまりそのツールの使い方までもを,アテンション・エコノミーに明け渡していないだろうか,という懸念である.本当に価値を認めている活動が,デバイスによってくじかれてはいないだろうか,という懸念である.

スマホをチェックするのは”さあ,当たりは出るかな”と期待してスロットマシンのレバーを引くようなもの

FacebookTwitterinstagramやニュースアプリなど,常習的に使用してしまうアプリケーションはどれも2つの要素を基に設計されている.それは間歇強化と承認欲求である.
①間歇強化:予期しない報酬システム.じぶんの投稿へのフィードバックや,ニュースアプリを巡回しているときに見つけた面白そうな見出しのこと
②承認欲求:言わずもがな,社会的な承認という,”小粒ながら中毒性の高い黄金”

UI/UXを突き詰めたとき,結果としてそこに行き着くことは全く不思議ではないし,必然である気がする.ユーザーにとって価値がある情報の精度を高めるために,とにかくデータを集めるために,まずは利用してもらう時間を増やそうとする.それがユーザーにとって無自覚的な利用状態であっても.私たちのデフォルト・モード・ネットワークに適合して支配するテクノロジーであったとしても.

「有害」とすべき理由

SNSのメリットは何か?と訊かれたら,何と答えるだろう,パッと思いつく私の答えは,

  • やむを得ず離れてしまった友人たちの近況を知ることができる
  • 会話だけでは非効率な情報交換を,非同期にできる
  • 「いいね」の送り合いで,気持ちが豊かになる

となる.しかし,そんなメリットの総和は,無自覚的な利用という大きな損失な対して「割に合わない」のだと,なかなか手厳しく,言われたくなかったところを突いてくる.

ものの値段とは,短期的,長期的に見て,それを手に入れるのに費やさなくてはならない,私が生活と呼ぶものの量である

これは「森で暮らしてみた」というようなことを書いたらしい本(※説明が雑なのは読んでいないからでそれ以上の意味はありません)『ウォールデン』で著者のソローが悟った,「ソローの新経済論」と呼ばれるものだ.これに照らし合わせれば,私が列挙したようなメリットをその利用時間で割ると,そんなにありがたがるものですか?ということだ.そのメリットはずっと低いコストで手に入るか,そもそもなくても困らないものじゃないですか?と.そしてさらにまくし立てるように,次のロジックをぶつけてくる.

収穫逓減の法則:あるプロセスに投入するリソースを増やしても,生産量は無限に増えるわけではない

つまり,新しいテクノロジーを利用すればするほどもたらされる利益が増えるなんていうことはなく,頭打ちになっているにも関わらず,時間というリソースを費やしていないか?ということだ.ここまでくると,はいその通りです,ごめんなさいと謝るしかなくなる.無駄に動物の動画を観たり,私とは無関係な人の少し主張の強いツイートとそのやり取りをなんとなく見たりしてすみませんでした.
と謝っていると,次は,それはあなたのせいではないよ,と言ってくれる.「そういう風に設計されている」と.ただそれを認めることも,恐怖を感じる.

  • 新しいテクノロジーは目新しく楽しい存在のため,具体的にどれだけメリットがあるか気づきにくい
  • 漠然とした姿勢で使ってもらえるように設計されている
    • Facebookの紹介文:コミュニティづくりを応援し,人と人がより身近になる世界を実現する

2つ目はFacebookがユーザー数を拡げた結果,抽象的な表現にせざるを得なかっただけなのでは,とやや擁護してしまう気持ちが湧くが,もうFacebookのせいにしてしおう,Twitterのせいにしてしまおう.お前たちのせいでやるべきことができないではないか!

自由になるために

シリコンヴァレーの投資家から最新のサービスを差し出されるたびに反射的に新規登録するのは自由とはかけ離れたものである

そんな真似しませんよ,なんて思うが,おそらく私のiPhone内のアプリと隣人のiPhone内アプリと比べたら,同じアプリがインストールされている気がする,それは追いやられた結果かもしれない.ここでタイトルである「デジタル・ミニマリズム」がやっと登場する.

デジタル・ミニマリズム

自分が重きを置いていることがらにプラスになるか否かを基準に厳選した一握りのツールの最適化を図り,オンラインで費やす時間をそれだけに集中して,ほかのものを惜しまずに手放すようなテクノロジー利用の哲学

具体的なステップは本書を読んでもらうこととして,重要なのはまずインストールされた数あるスマホのアプリの中から本当に必要なものだけを残した上で,さらに残したアプリも使用方法に制約を作る,ということだ.コツはこれを一気にやる.ということで,ほぼ無意識的に開いてしまうinstagramtwitterを中心にアンインストールをした.たが,まったく見なくなるのも不安だったので,週末だけPCから見ることにした.結果としては,

  • instagramは私にとってまったく必要ないことがわかった
  • facebookも同じ
  • twitterはフォローする人を厳選して,毎日見る必要はない.
  • ニュースアプリはクリップするだけ.週末にまとめて読む.

という感じになったはずだったが,twitterChromeアプリでスマホからログインした結果,トップに表示されるようになってしまい,失敗.ニュースはまとめて見ませんでした.
敗因を分析すると,これらをやめて何をするか,という明確な目的がなかった.当たり前だが,やってみるだけでは不十分だった.ということで,この時間で筋トレと読んだ本のアウトプットをしようと決意した(今ココ).

広帯域コミュニケーション

ここまで触れてこなかったが,著者がSNS上のやり取りを「価値が低い」と評しているのは,主に”いいね”の押し合いであり,この1bitのやり取りでコミュニケーションをとった気になってはいけないと言っている.人間が進化の過程で備えてきたコミュニケーション能力とは,五感をフル活用して多くの情報を同時並行して処理するもので,それこそが人間関係を豊かにする,というものだ.Twitterのありがたみを実感してきた私としては,「すでに一定レベル築かれた人間関係においては」という条件付きで同意できる.新しい繋がりを生みやすいという点で,SNSは価値があるものだと思う.(その辺は小島秀夫監督作品「Death Stranding」でも語られているところなので,全クリしたときにでも,このゲームの素晴らしさを書きたいと思う.)
著者が勧めている「広帯域コミュニケーション」の一つにボードゲームがある.

ボードゲームは,デジタル世界と離れた独特の社交空間を作る

たしかに,ボードゲームとゲームの楽しさは異なる.個人的には,オンラインでゲームをするよりも,ボードゲームをした方が楽しいと感じる.オンラインも,ただ一緒にやるよりも,ビデオチャットをしながらの方が楽しい.CPUを相手にするより,他のPLAYERを相手にする方が楽しい.つまり,リアルな要素が多いほどゲームは楽しい.それがより多くの感覚を使用する,ということでもたらされているのであれば,これまでの主張は正しいと思うし,ゲームやSNSなどのツールはあくまで補助的な存在であるということを忘れてはいけない気にさせてくれる.

本当に大切なこと,を見つけること

この本が示している「本当に大切なこと」は,一般論としては定義できないというのが私個人の考えで,たとえ低帯域なコミュニケーションであっても,その力が大きく感じることがある.それは良くも悪くも,伝送される情報量がわずかであっても,いくらでも「解釈する」ことができるからだと思う.だから,質が低いと定義されたコミュニケーション自体にあまり問題意識はない.せめて言うなら,必要なときがある程度だろう,という認識だ.
一方で,本来自分が価値を認めていることが脅かされている状態は,断固として望ましくない.これは本書に書かれているとおりである.スマホが登場する前からそのような状態はあったから,全ての責任を新しいテクノロジーのせいにはできないとは思うが,極論を言ってしまえば「本当に大切なこと」があれば,脅かされる心配はないだろうということだ.これは非常に難しい.本当に大切なことを見つけるのが難しいから,「なんとなく手近で大切そうに見えること」を優先してしまうような気がする.
この本で書かれたデジタル・ミニマリズムを押し進めながら,もう少し「本当に大切なこと」が何かを見つけてみようと思う.

15時17分、パリ行き (2018)

introduction

 ”運命に立ち向かえ”
 列車ストーリーは、強いメッセージを乗せて急行する。

Cast and Crew

 監督はクリント・イーストウッド。「ミリオンダラーベイビー」と「ハドソン川の奇跡」を観たのを思い出す。彼はノンフィクションの人で、リアルを真正面から受け止めて、そこから逃げず、立ち向かう。映画という作品に昇華するまで物語に立ち向かう。正に固体が気体になるように、物語リアルは映画になって、そこで生まれるエネルギーは私たちに力を与えてくれる。(昇華に必要なエネルギーが計り知れないことは言うまでも無いだろう)
 そして何よりキャストがすごい。物語リアルを牽引し、英雄となった3人がそのまま演じている。だからこれはもはや演技ではない。再現だ。再現だから、この3人のやりとりには虚構を感じない。ホームビデオを観ているような安心感すらある。初めてこの作品を観た人に、得意げにこんなセリフを言ったとしてもきっと驚かない。
「あの3人は、実はこの物語を作った本人なんだ!」
「ーーどうして本人じゃないと?」

Plot Summary

 パリ行きの列車は、今日も観光客を乗せていた。小学校からの仲良し3人組もその観光客で、ただそれだけでしかなかった。
 列車は途中の停車駅で、男を乗せる。頭から爪先までとりたてて特徴の無いその男は、スーツケースに大量の銃を入れている。銃は、仲良し3人組が運命に立ち向かう引き金 トリガーとなるが、当の本人たちはそれを知らないーー銃弾が乗客の身体を貫くまで。  

Review

 この物語リアルは、「イスラム過激派から乗客を救った男たちの英雄譚」に留まるものではない。それを語り継ぐだけであれば、きっと映画にする必要は無い。クリント・イーストウッドが急行する列車の終着に昇華させたものは、英雄たちを英雄たらしめた「運命に立ち向かった」事実そのものに尽きる。
 93分の物語の大半は、アンソニー、スペンサー、アレクの出会いから、列車に乗るきっかけとなるヨーロッパ旅行までが占める。そこには彼らが特別で、「英雄向き」であるような描写は一切ない。幼少時代は母子家庭であることが学校での粗相の原因のように扱われ、(そこまで非道いものではないが)いじめられ、次第に3人で遊ぶことが増える。
 社会に出ると、スペンサーとアレクは入隊する。小太りのスペンサーは入隊までに「人を助けたい」と生まれて初めて努力をするも、希望の空軍パラレスキュー部隊には所属できない。「奥行認知能力」の欠如で、だ。さらに不本意ながら所属された部隊でも、寝坊や裁縫の課題ができずに落第してしまう。彼には誰もが思い描くような「英雄の資質」は無い。
 ヨーロッパ旅行でのスペンサーとアレクは少々いらっとするくらいミーハーである。自撮り棒でどこもかしこも写真を撮りまくる。ナンパした女の子とはジェラート(ジェラシーの語源だろこれ)を食べ、写真を撮り、夜はパーティーに行き、ベネチアでのランチは「ピッツァ!」だ。誰もが想像するヨーロッパ観光を1から10までしてくれる。(でもナンパはしないだろ)そしてイタリアの街並みを見渡したスペンサーは、不意にこんなことを言う。

人生に選択肢なんてない。導かれているんだ。

 このときのセリフをスペンサーは「タバコを吸ってハイになってたんだ」と誤魔化すが、それはスペンサーが唯一表明した哲学だった。空軍パラレスキュー部隊に入隊できなかったことも含めて、本心からそう言ったのだ。だから、スペンサーたちは、良い噂のなかったパリ行きの計画を変更することはしなかった。選択肢はなかった。
 それは、列車での席の移動もそうだった。自撮り棒で撮りまくった写真を列車内でアップできないから、スペンサーたちはWiFi環境がある1等車へ移動した。たったこれだけの動きが、ある意味では事件の被害を最小限にした。どこまでもありふれていて、何の特徴もない彼らは、人生の導きに従っただけだ。
 しかし、この物語は最後の重要なメッセージを残す。いや、メッセージなど残しているつもりはないだろうが、この何の変哲も無い(と滔々と表明された)彼らが最終的に実行したのは。「運命に立ち向かったこと」だ。スペンサーは自分に向けられたテロリストの銃に、突進する。銃は弾が出ず、スペンサーはテロリストを押さえつける。アレクとアンソニーも加勢するが、スペンサーはナイフで頭部を切られる。柔術で応戦して、テロリストを無力化する。撃たれた男を介抱する。一連を目撃していた少女を匿う。彼らは逃げなかった。「15時17分、パリ行き」という戦地から。日常に入り込んだ銃から。
 

窮地に立たされたら、行動するんだ

 ヨーロッパのようなテロリズムとは今のところは無縁な日本では、本物の銃を向けられることはないだろう。だが、銃口なようなものはいつだって向きうる。それが銃口であることすらわからないかもしれない。そういうとき、この映画の英雄たちは、立ち向かう勇気をくれるような気がする。

キングスマン:ゴールデンサークル (2018)

std::cout << 英国紳士を作るのは持ち物 << std::endl;

introduction

 ウィスキーは好きか?ロックなど認めん。水割りなど以ての外だ。
 じゃあスーツはどうだ?仕事でスーツを着なくたって、出かけるときはいつもスーツを着るんだ。
 では時計は好きか?もちろん古臭いアナログ時計なんかじゃなく、スマートウォッチのことだ。
 紳士の条件だって?それには最上級のアイテムと、脳を修復できるゲルキットと、下水に飛び込んでまで会いたいと思える恋人が必要だ。

Cast and Crew

 監督はマシュー・ボーンキック・アスという作品を聞いて、納得感がある。
 キングスマンタロン・エガートン、前任はコリン・ファース。スーツを着るために生まれてきたかのようにカッコイイ。スーツも相当カッコイイのかもしれないけど、この二人がかっこよすぎるのでスーツのかっこよさがあまり伝わらないような気もする。
 そしてたぶん誰よりも存在感を放っていたのが、本業がミュージシャンのエルトン・ジョン
 これまで聴いたことはなかったので、聴いてみるとなんてストレートな詩なのだろう。この your song なんて、多くの英国紳士が求婚するのに力を借りていると見積もってまず間違いない。それほどストレートな曲だ。How wonderful life is while you're in the worldだって。この映画で彼を知った人は、同時にマシュー・ボーンという監督の本気を認めざるを得ないだろう。本気でアホをする監督だ!
https://www.youtube.com/watch?v=mTa8U0Wa0q8www.youtube.com

Plot Summary

 キングスマンとは、高級テーラーのお店の名前で、その裏稼業は英国の諜報員。エグジーキングスマンの「現場担当」として店に立つ。
 そこへキングスマンの元候補生チャーリーが襲撃に現れる。一度は撃退するも、義手のハッキングによってキングスマンの拠点位置が漏れ、ミサイル攻撃によって壊滅状態となる。
 残る「現場の」キングスマンは、恋人でスウェーデン王女でもあるティルデのもとにいたエグジーと、バック担当のマーリン、そして脳を損傷し記憶を喪失したハリー。情報網からミサイル攻撃を実行したのは世界最大の麻薬組織「ポピー・ランド」であることを突き止めるが、報復のためには記憶を喪ったハリーの力が不可欠であった。

Review

 女性諸君に問いたい。この映画に理想の紳士はいたのか。いやもっと単純な質問は、この映画が面白いか。
 あくまで勝手な推測であるが、これほど「オトコ受け」する映画は無いと思う。しかも「オトコ受け」を狙って作ったような作品でもなく、オトコたちが最新の映像技術と童心だけでイノベーションを起こした結果であり、そこに「こんな人に観て欲しい」などという想いは無いのである(バッサリ)。だから真面目にふざけているのをゲラゲラ笑って観ている、小学生の頃のようなノスタルジーを感じるほどくだらなくて素晴らしい。紳士というキーワードは、ある意味そのくだらなさをさらに浮かび上がらせるのに、取って付けたように使われている。大人が子どもの心のまま、ふと「そういえば俺は大人だった。紳士のふるまいをしなくては」という程度の紳士さ。(単に私が読み取れなかっただけかもしれないけど。)だからこの映画に対して「紳士とはなんたるかを少しでも学ぼう」などと真面目に考えていた自分には、「映画でそんなことやらないよ〜!おしりぺんぺん!」とからかわれた気分がして、とても爽快だった。
 紳士としての設定がいちばんに活きてくるのはそんなくだらなさと、さらに別の面を持っている、持ち物のクールさだ。冒頭のカーアクションに始まり、メガネ、時計、傘にいたるまで、一流の「機能性」を備えている。ファッション雑誌に載るようなオシャレさではなく(もちろんオシャレではあるが)、圧倒的な機能性が追求されている。自動運転、スマートグラス、スマートウォッチという最先端技術の塊を、紳士は備えている。マナーが人を作るのであれば、持ち物は紳士を作るのだ。
 さらに今回はステイツマンなんていうのも登場する。壊滅したジェントルマンが、アメリカに飛び、ステイツマンと協力する。もちろんここでも、ジェントルマンとステイツマンは対照的に描かれるも、そこに真面目なメッセージなど存在しない。ステイツマンたちはコードネームで自己紹介をする。「私はジンジャーエールよ」「俺はテキーラだ」「彼がウィスキー、そして私がシャンパンだ」と。笑うでしょ、こんなの。コナンくんの黒の組織とは緊張感がまるで違う。
  ちなみに肝心のミッションの方は、女性器に触ることで体内に発信機を送り込むシーンがあって、中指にハメたそれを、腹からヘソを経て女性器に向かってすべらせていく。そこに鳴るのはミッションインポシブル顔負けの緊張感溢れるBGM。世界に対して映画という手段を使ってこんなアホなことをしてもいいんだ!なんて、私はまるでマシュー・ボーンと友達になったかのような気分で笑っていた。こういうテイストの映画、これからもどんどん増えてほしい。    

GODZILLA 怪獣惑星 (2017)

std::cout << 地球にこだわることは甘くないビーム << std::endl;

Introduction

人類の畏怖の象徴であるゴジラ。人類の驕りを圧倒的な熱線によって吹き飛ばす。
それはシン・ゴジラでも変わらず継承され、東京が焼かれた。
宇宙があるから地球があって、地球があるから人類がいるんだから、すべての中心に人類がいるなんて、 いやもっと言えば自分が世界の中心だなんて、そんな考えをゴジラは容易く吹き飛ばす。
アニメGODZILLAは、このゴジラの存在をどのように「観せる」のか。

Cast and Crew

虚淵ゴジラ虚淵氏と言えば、私が知っているのは、まどマギサイコパス、楽園追放。
小説家とかシナリオライターとかの持つ一般的なイメージよりも、エンターテイナーというイメージが近い。それも、楽しませたいという気持ちよりも、自分が楽しむという気持ちを優先するタイプという印象がある。そして、退屈・平素・普遍というものから遠ざかり、世界はひっくり返すためにあるんだと言わんばかりの構成をする。だから、飽きないことは保証されているし、それなりの覚悟を持って観るのだが、いかんせん考える暇を与えてくれない。
声優陣は、企画の成功を確信したように豪華だ。詳しくない私ですらほとんど知っている(ちゃんと声優業の有名人)。

Plot Summary

地球は、人類のものではなくなった。否、最初からそうではなかった。
突如現れた怪獣によって、人類のために最適化された地球は荒廃する。しかし、その関係すら崩壊させる、人間も怪獣も問わず破壊する唯一個体「GODZILLA」によって、ついに人類ひいては他惑星出身の人型種族は地球を棄てざるを得なくなった。
生存した5000人は、移住先を求めて航行する。船内での経過時間は22年、地球時間で10000年と推定されていた。
移民船はやがて目標惑星に到着するが、明らかに人類の生存は困難であった。ハルオはその選択が不可能であるのにも関わらず、一部の人類をそこへ残すという委員会の判断に怒り、違法行為によって投獄される。
ハルオが移民船に乗ったのは4歳のときで、ゴジラによって家族を失い、ゴジラから地球を取り戻すことに強く執着していた。彼は、ゴジラを倒して地球を取り戻す算段を、独学の研究によって確立していた。研究資料を共有サーバーに公開し、地球へ帰還するプランが実行されることを誰よりも望んでいた。

食事や水が枯渇していく中、委員会は遂に地球へ帰還するプランを検討する。帰還の目的はあくまで資源の回収であったが、ハルオは待ちに待ったその時を迎え、決意する。
ゴジラは倒せる。勝てなかったのは逃げたから、諦めたから。ゴジラを倒し、地球を奪還する。

Review

端的に言うと、好きになれない作品。
これがシリーズ物の第1部だということを差し置いても、誰かにおすすめしようは思えなかった。
映像は綺麗で、声優も素晴らしく、ストーリーも悪くないのだが、虚淵氏がこのゴジラで何をしたかったのかが読み取れないのだ。
ゴジラの圧倒的パワーや、人類が太刀打ちできそうにない絶望は間違いなく示されていて、This is GODZILLAということは胸を張って言える。
しかし、ハルオが地球に誰よりも固執し、手段を選ばずに特攻するほどの背景が見えない。仲間の犠牲を覚悟することも後悔することもなく、目の前のゴジラを倒すことだけに執着できるほどの気持ちはどこにあるのだろう。結局最後までその疑問は晴れなかった。虚淵氏の策略なのか。だとすると2部、3部と観なければならないが、気が進まない。
それと、CGの制約かもしれないが、表情のバリエーションが少ない。誰一人印象的な表情をせず、ハルオでさえも心のどこかで諦めているのではないかと思ってしまう。たまに入る地球環境の変化の描写や、ゴジラ成分の飛翔生物も、物語に入り込んでこない。正に、ゴジラのシールド分布グラフにあった「隙間」のように、物語から浮いている印象がある。

作品である以上、(その道の人間でもないので)否定的に捉えることは控えようと思ってはいるが、ここまで納得できないのは久しい。
だからこれは2部、3部をもって改めて評価すべきで、これ以上のことは言えない。
もし来たる2部、3部でこの疑念が晴れたら、再度謝りながら感想を書きたいと思う。人気シリーズに肖った、二足歩行型巨大商業生物となりませんように。