一瞬先の未来のために

日常に帰るまでが映画です

キングスマン:ゴールデンサークル (2018)

std::cout << 英国紳士を作るのは持ち物 << std::endl;

introduction

 ウィスキーは好きか?ロックなど認めん。水割りなど以ての外だ。
 じゃあスーツはどうだ?仕事でスーツを着なくたって、出かけるときはいつもスーツを着るんだ。
 では時計は好きか?もちろん古臭いアナログ時計なんかじゃなく、スマートウォッチのことだ。
 紳士の条件だって?それには最上級のアイテムと、脳を修復できるゲルキットと、下水に飛び込んでまで会いたいと思える恋人が必要だ。

Cast and Crew

 監督はマシュー・ボーンキック・アスという作品を聞いて、納得感がある。
 キングスマンタロン・エガートン、前任はコリン・ファース。スーツを着るために生まれてきたかのようにカッコイイ。スーツも相当カッコイイのかもしれないけど、この二人がかっこよすぎるのでスーツのかっこよさがあまり伝わらないような気もする。
 そしてたぶん誰よりも存在感を放っていたのが、本業がミュージシャンのエルトン・ジョン
 これまで聴いたことはなかったので、聴いてみるとなんてストレートな詩なのだろう。この your song なんて、多くの英国紳士が求婚するのに力を借りていると見積もってまず間違いない。それほどストレートな曲だ。How wonderful life is while you're in the worldだって。この映画で彼を知った人は、同時にマシュー・ボーンという監督の本気を認めざるを得ないだろう。本気でアホをする監督だ!
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Plot Summary

 キングスマンとは、高級テーラーのお店の名前で、その裏稼業は英国の諜報員。エグジーはキングスマンの「現場担当」として店に立つ。
 そこへキングスマンの元候補生チャーリーが襲撃に現れる。一度は撃退するも、義手のハッキングによってキングスマンの拠点位置が漏れ、ミサイル攻撃によって壊滅状態となる。
 残る「現場の」キングスマンは、恋人でスウェーデン王女でもあるティルデのもとにいたエグジーと、バック担当のマーリン、そして脳を損傷し記憶を喪失したハリー。情報網からミサイル攻撃を実行したのは世界最大の麻薬組織「ポピー・ランド」であることを突き止めるが、報復のためには記憶を喪ったハリーの力が不可欠であった。

Review

 女性諸君に問いたい。この映画に理想の紳士はいたのか。いやもっと単純な質問は、この映画が面白いか。
 あくまで勝手な推測であるが、これほど「オトコ受け」する映画は無いと思う。しかも「オトコ受け」を狙って作ったような作品でもなく、オトコたちが最新の映像技術と童心だけでイノベーションを起こした結果であり、そこに「こんな人に観て欲しい」などという想いは無いのである(バッサリ)。だから真面目にふざけているのをゲラゲラ笑って観ている、小学生の頃のようなノスタルジーを感じるほどくだらなくて素晴らしい。紳士というキーワードは、ある意味そのくだらなさをさらに浮かび上がらせるのに、取って付けたように使われている。大人が子どもの心のまま、ふと「そういえば俺は大人だった。紳士のふるまいをしなくては」という程度の紳士さ。(単に私が読み取れなかっただけかもしれないけど。)だからこの映画に対して「紳士とはなんたるかを少しでも学ぼう」などと真面目に考えていた自分には、「映画でそんなことやらないよ〜!おしりぺんぺん!」とからかわれた気分がして、とても爽快だった。
 紳士としての設定がいちばんに活きてくるのはそんなくだらなさと、さらに別の面を持っている、持ち物のクールさだ。冒頭のカーアクションに始まり、メガネ、時計、傘にいたるまで、一流の「機能性」を備えている。ファッション雑誌に載るようなオシャレさではなく(もちろんオシャレではあるが)、圧倒的な機能性が追求されている。自動運転、スマートグラス、スマートウォッチという最先端技術の塊を、紳士は備えている。マナーが人を作るのであれば、持ち物は紳士を作るのだ。
 さらに今回はステイツマンなんていうのも登場する。壊滅したジェントルマンが、アメリカに飛び、ステイツマンと協力する。もちろんここでも、ジェントルマンとステイツマンは対照的に描かれるも、そこに真面目なメッセージなど存在しない。ステイツマンたちはコードネームで自己紹介をする。「私はジンジャーエールよ」「俺はテキーラだ」「彼がウィスキー、そして私がシャンパンだ」と。笑うでしょ、こんなの。コナンくんの黒の組織とは緊張感がまるで違う。
  ちなみに肝心のミッションの方は、女性器に触ることで体内に発信機を送り込むシーンがあって、中指にハメたそれを、腹からヘソを経て女性器に向かってすべらせていく。そこに鳴るのはミッションインポシブル顔負けの緊張感溢れるBGM。世界に対して映画という手段を使ってこんなアホなことをしてもいいんだ!なんて、私はまるでマシュー・ボーンと友達になったかのような気分で笑っていた。こういうテイストの映画、これからもどんどん増えてほしい。    

GODZILLA 怪獣惑星 (2017)

std::cout << 地球にこだわることは甘くないビーム << std::endl;

Introduction

人類の畏怖の象徴であるゴジラ。人類の驕りを圧倒的な熱線によって吹き飛ばす。
それはシン・ゴジラでも変わらず継承され、東京が焼かれた。
宇宙があるから地球があって、地球があるから人類がいるんだから、すべての中心に人類がいるなんて、 いやもっと言えば自分が世界の中心だなんて、そんな考えをゴジラは容易く吹き飛ばす。
アニメGODZILLAは、このゴジラの存在をどのように「観せる」のか。

Cast and Crew

虚淵ゴジラ虚淵氏と言えば、私が知っているのは、まどマギサイコパス、楽園追放。
小説家とかシナリオライターとかの持つ一般的なイメージよりも、エンターテイナーというイメージが近い。それも、楽しませたいという気持ちよりも、自分が楽しむという気持ちを優先するタイプという印象がある。そして、退屈・平素・普遍というものから遠ざかり、世界はひっくり返すためにあるんだと言わんばかりの構成をする。だから、飽きないことは保証されているし、それなりの覚悟を持って観るのだが、いかんせん考える暇を与えてくれない。
声優陣は、企画の成功を確信したように豪華だ。詳しくない私ですらほとんど知っている(ちゃんと声優業の有名人)。

Plot Summary

地球は、人類のものではなくなった。否、最初からそうではなかった。
突如現れた怪獣によって、人類のために最適化された地球は荒廃する。しかし、その関係すら崩壊させる、人間も怪獣も問わず破壊する唯一個体「GODZILLA」によって、ついに人類ひいては他惑星出身の人型種族は地球を棄てざるを得なくなった。
生存した5000人は、移住先を求めて航行する。船内での経過時間は22年、地球時間で10000年と推定されていた。
移民船はやがて目標惑星に到着するが、明らかに人類の生存は困難であった。ハルオはその選択が不可能であるのにも関わらず、一部の人類をそこへ残すという委員会の判断に怒り、違法行為によって投獄される。
ハルオが移民船に乗ったのは4歳のときで、ゴジラによって家族を失い、ゴジラから地球を取り戻すことに強く執着していた。彼は、ゴジラを倒して地球を取り戻す算段を、独学の研究によって確立していた。研究資料を共有サーバーに公開し、地球へ帰還するプランが実行されることを誰よりも望んでいた。

食事や水が枯渇していく中、委員会は遂に地球へ帰還するプランを検討する。帰還の目的はあくまで資源の回収であったが、ハルオは待ちに待ったその時を迎え、決意する。
ゴジラは倒せる。勝てなかったのは逃げたから、諦めたから。ゴジラを倒し、地球を奪還する。

Review

端的に言うと、好きになれない作品。
これがシリーズ物の第1部だということを差し置いても、誰かにおすすめしようは思えなかった。
映像は綺麗で、声優も素晴らしく、ストーリーも悪くないのだが、虚淵氏がこのゴジラで何をしたかったのかが読み取れないのだ。
ゴジラの圧倒的パワーや、人類が太刀打ちできそうにない絶望は間違いなく示されていて、This is GODZILLAということは胸を張って言える。
しかし、ハルオが地球に誰よりも固執し、手段を選ばずに特攻するほどの背景が見えない。仲間の犠牲を覚悟することも後悔することもなく、目の前のゴジラを倒すことだけに執着できるほどの気持ちはどこにあるのだろう。結局最後までその疑問は晴れなかった。虚淵氏の策略なのか。だとすると2部、3部と観なければならないが、気が進まない。
それと、CGの制約かもしれないが、表情のバリエーションが少ない。誰一人印象的な表情をせず、ハルオでさえも心のどこかで諦めているのではないかと思ってしまう。たまに入る地球環境の変化の描写や、ゴジラ成分の飛翔生物も、物語に入り込んでこない。正に、ゴジラのシールド分布グラフにあった「隙間」のように、物語から浮いている印象がある。

作品である以上、(その道の人間でもないので)否定的に捉えることは控えようと思ってはいるが、ここまで納得できないのは久しい。
だからこれは2部、3部をもって改めて評価すべきで、これ以上のことは言えない。
もし来たる2部、3部でこの疑念が晴れたら、再度謝りながら感想を書きたいと思う。人気シリーズに肖った、二足歩行型巨大商業生物となりませんように。

ブレードランナー2049 (2017)

初投稿につき

 SFというものに初めて自分の意思で触れたのは、山本弘氏の『神は沈黙せず』だった。当時は中学生で、山田悠介氏の「ライトな」小説が流行っていて(というか最初に持ち込んだ火付け役だった気がする自惚れ)、クラスで広まった頃にインテリぶりたかった私は「みんなより一段上の本だぜ」と言わんばかりにその小説を読んでいた、という不純なきっかけである。不良ぶりたくてタバコを吸い始めることとあまり差はないと思っているが、理由がなんであれ、素晴らしい世界への入り口に立てたことは間違いない。

 ただ、それ以来SFを好んで読んでいたわけでなく、むしろ知見や世界観の理解には高いハードルがあることを実感して、離れていた(『神は沈黙せず』も、結局ちゃんと読んだのは高校生になってから)。そして大学生の頃、生協の購買で伊藤計劃氏の『ハーモニー』を手に取ったことが、ブログを書くという今現在の行為につながる出会いだった。『ハーモニー』についての想いや感想は、いずれ。書かずにはいられない。

 終わりに。

 冒頭からSFとの出会いを述べたが、特にSFに限定して書いていくつもりは無い。SFでなくても好きな作品はたくさんあるし、好きな作家もいるし、音楽も聴くし、野菜中心の食生活を心がけてるし、涙で枕を濡らす夜もあるし、エロいことを考えるし、仕事はできればしたくないけどお金が欲しい。そういうつもり(?)で書いていく。なにが言いたいかというと、心を動かされたあらゆる体験を記録する、雑多なブログになりますのでご承知おきくださいというコトワリである。

 

いきなりバリアー(意:言い訳)

 ブログを始めようと決意してから、最初に観た映画がこの「ブレードランナー2049」。仮に私がレプリカントで、職務遂行後の精神分析テストで「前作ブレードランナー」と呼びかけられたら、異常値を出す自信がある。「原作アンドロ羊」と呼びかけられても同様だ。つまり、観ていないし、読んでいない。「必修科目のフィリップ・K・ディック氏のアンドロ羊も読まずに、何がSF好きだ!」と大勢の人に叱られる夢を見そうである。ただ、観てしまったものは仕方がない。まわりの人が観ろって言うし。

 

 

/* ここからやっと映画の話 */

人間らしさ探究の旅

 アンドロイドを登場させたら、まず避けては通れない命題だ。人間とロボットの境界。遺伝子配列とプログラムの境界。自然と人工の境界。それがKの命題で、Kの「気持ち」になって考えてしまう私たちは、おのずと自分の考える人間らしさと向き合うことになる。はたして自分は人間らしいか、と。

 大義のために死ぬことは、もっとも人間らしい

 旧型と呼ばれるレプリカントは、そう言った。

 大義のために死ぬ、と聞くと、死んで初めて人間らしいのかと問いたくなるが、そもそもこれを達成しようとしたら「大義を見つけるまで生きる」ことが必要になる。もっと噛み砕くと、生きる意味を見つけなくてはならない。

 人間とアンドロイドで共通するのは「生まれることを選べない」ということだと思う。自分の意思で生まれたわけではない。だから、生きる意味はどうしたって後付けになるし、悲観的にも考えられてしまう。生きる意味なんてもともと無いというのに、反論の余地は無い。

 一方で、レプリカント同士の間にできた子どもを追うKは、こんなことを言った。

(妊娠して生まれたレプリカントには)魂があるから

 レプリカント、というより少なくともKからすると、「造られた」ことと「産まれた」ことは異なって見えている。どちらも生まれることを選べないという点では同じであるが、生まれるまでの過程に差異を感じ、それを「魂」という言葉で置き換えている。Kは、自分の中で「魂」とは何であるかという答えを持っている。

 

魂とはなにか

 レプリカントが「造られる」のには明確な理由がある。人間のための労働力という存在でしかない。しかし、人間が「産まれる」ことに、理由はない。人類や国家の繁栄のため、という答えがあるかもしれないが、直接的な理由ではない。親が性行為をした結果であり、生きる意味は与えられていない。ましてや、遺伝子配列に表現されていることもない。

 つまりKの考える魂とは、生まれた理由がないことを指しているのではないかと思うのだ。理由がないからこそ、それを探すのにはコンパスが必要であり、それが「魂」なのだ。だから生きる意味がない、ということは全く悲観することではない。人間は、死ぬまでそれを探し続けることができる。逆に言えば、探し続けるからこそ人間なのだ

生きる意味が決められた人間が、人間らしいわけがない。

 

人間もどきもいればレプリカントもどきもいる

 Kは製造番号しか持たず、人間の同僚からは「skinner(もどき)」と呼ばれていた。

 しかし、従順に造られたはずの新型であるKが、自分の意思で唯一の記憶を辿り、真実を突き止め、大義によって死ぬ。このKに対して私たちは誰一人skinnerなどとは呼べないだろう。論理的に考えるまでもなく、雪上で死にゆくKは「人間らしい」と感じる。

 「人間らしい」というのは人間をレプリカントの上位に置いた言い方であるが、人間であるというだけで人間らしいわけではない。不幸にも、人間らしく生きられない人間はいる。人間らしく生きようとする意思さえ抑え、レプリカントのように振舞わなければいけないこともある。

 

 

 アンドロイドという存在が人間社会でどのような存在になるのか想像もつかないが、存在そのものが人間に人間らしさを考えさせることになる。アンドロイドのことを思っているようで、人間は人間のことしか考えられない。

 そして今は、生まれた意味がなくてよかったと思いながらも、明日の朝起きる「仕事」という理由を見つけて、すぐに短期的視点に戻ってしまう己の哀れさに暮れながら、いつも通り眠るのである。

 

トピック「ブレードランナー2049」について